日の丸共選について
「日の丸みかん」を
育て上げ、全国へ送り出す
「日の丸共選」
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園地で収穫された「日の丸みかん」をJAにしうわ「日の丸柑橘共同選果部会」(以下、日の丸共選)では、センサーにより糖度・酸度を、カメラで色・キズ・形・サイズを計測し、さらに腐敗センサーで傷み果の徹底除去を実施。色や形などのランク別に、「豪琉頭(ゴールド)千両」「日の丸千両」「ガキ大将」といったネーミングで商品化しています。
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トップブランド産地であり続けるためには、部会の皆さんとともに、品質管理に努めていかなければなりません。今後は、経験豊富なベテランとアイデア豊富な若手の知見をかけ合わせ、「日の丸みかん」の価値向上に努めていきたいと考えています。
120年以上にわたる
みかん栽培の技術の結晶
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「量よりも質」を最重要視するJAにしうわ「日の丸共選」の厳しい選別基準により、「日の丸みかん」は昭和天皇への献上みかんに選ばれ、今日に至っています。
また2021年、2022年と2年連続で大田市場の温州みかん初競りで、桐箱入り日の丸みかんが過去最高の150万円で競り落とされました。 -
沿革
〜日の丸みかんの歴史は120年以上〜
日の丸みかんの産地である八幡浜市向灘のみかん園は、八幡浜湾を南に臨みすぐ後ろには山が迫り平地が少なく、石積み作りの帯状の段々畑でつくられています。地形を少しでも耕作面積として広く利用するため、先人たちは山頂近くまで開墾し、みかんを栽培するまでは、桑、藍、さつまいも、麦、アワ、キビなどが栽培されていました。
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明治27年(1894年)大家百次郎の手により福岡県よりみかん、夏柑、ネーブルなど約3,000本の苗木が導入され、柑橘栽培を開始。
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明治末〜大正初初期この時期はまだ桑、藍などとの混植が続く。
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大正末〜昭和初期商人の買い付けにより、船便で下関方面に出荷される。
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昭和5年(1930年)頃手回し選果機が導入され、大阪方面にも出荷されるようになり、市場指定が行われる。
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昭和8年(1933年)共同選果場が建設され、同時に共販体制を確立し、「向灘日の丸柑橘出荷組合」が誕生した。
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昭和10年(1935年)頃日系人が多かった北アメリカ、中国の青島に輸出を開始する。
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第二次世界大戦中〜戦後食糧増産の国の施策の下、強制伐採となる。
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昭和21〜25年(1946〜1950年)本格的な選果場体制が整備され、東京市場へ進出する。
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昭和26〜30年(1951〜1955年)日の丸みかんの顔と言われる「南柑20号」が盛んに増殖される。
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昭和39年(1964年)日の丸組合と朝日組合が合併し、日の丸組合へ一本化される。
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昭和42年(1967年)西日本一帯の大干ばつにより、当時は灌漑(かんがい)施設がなく、大きな被害を受けた。これを機に、国・県・市町で南予用水事業に取り組み、約20年の歳月を費やし、野村ダムから水路が建設され、水不足の不安が一気に解消された。
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昭和57年(1982年)「第11回日本農業賞」受賞。
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平成2年(1990年)宮内庁と愛媛県青果連のご推挙により昭和天皇大嘗祭に供納するみかんを献上することができ、質実共に日本のみかんの最高峰としての評価を得る。全園がスプリンクラーによる灌水、防除が可能になる。
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平成6年(1992年)日の丸みかんのトップブランド「千両」の誕生。
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平成18年(2006年)「千両」は秀出に意味深く、日の丸みかんの特選にふさわしいという意が込められている。
アクセス
日の丸柑橘共同選果部会
〒796-0031
愛媛県八幡浜市江戸岡1-12-10
(JR八幡浜駅となり)
TEL 0894-22-2242
FAX 0894-27-0661